宮城喜久子さんを追悼して

ひめゆり学徒隊、のちにひめゆり平和祈念資料館副館長をされていた宮城喜久子さんがお亡くなりになりました。
ご生前、宮城さんからお話を聞いた者として、ちょっとだけ書きます。

 
宮城さんからいろいろとお聞きしましたが、一番印象に残っているのが、荒崎海岸でのことです。
荒崎海岸では、多くのひめゆり学徒が亡くなっています。アメリカ兵の一斉銃撃、
榴弾による自決などです。宮城さんは奇跡的に助かって、捕虜となるのですが、
そのときのことをのちに文章にされています。
ぼくは、ひめゆり平和祈念資料館のガイドブックのなかの文章で読みました。
以下、手元にガイドブックがないので、記憶をもとに書いています。

 

ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック

ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック

 

 
宮城さんたちは、いよいよ追い詰められて、荒崎海岸のゴツゴツした珊瑚の岩の間のくぼみに固まっていたのです。

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(写真は宮城さんたちが身を隠したくぼみ。たしか3~4人いたはず。)


そのとき、日本兵が捕虜になろうとアメリカの船のほうへ海のなかに入っていったの
です。それをどこからかアダンの林の中にいた味方の兵士が撃ったのです。
日本兵は赤い血を流して波の上を漂ったのです。

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(アメリカ兵は小さな船で波打ち際まできていた。沖にはアメリカ艦船がいっぱいだった。マイクで投降を呼びかけていた。)


そのあと、ある日本兵が飛び込んできて、「アメリカ兵が来た」と言ったんだっけ。
アメリカ兵の銃撃が始まって、別のところでは、手榴弾で先生と友人たちが自決した。

宮城さんは、友人や兵士の体の陰になって、奇跡的に助かった。となりの友人が
銃撃を受けて、宮城さんの体にもたれてきた。たしか、そんな内容だったと
思います。

・・・ずっと思ってたんですが、あの時、ある日本兵が捕虜になろうとアメリカの
船のほうにむかっていったとき、もし後ろから撃たれずに、捕虜になっていたら
どうなっていたのだろう?

そりゃ、アメリカ兵につかまったら、男は殺されて、女は犯されてから殺されると
アメリカ兵は人間じゃない、けだものだと思っていたから、そんなに状況は
変わらなかったかもしれない。
宮城さんも、手榴弾のピンを抜こうとしたところを、アメリカ兵につかまったから
なあ。

しかし、後ろから味方を撃たなくてもいいだろ?!
撃った人は、捕虜になるっていうのが許せなかったのかなあ。
捕虜って、裏切り行為だったんだろうなあ。

でも、その人が捕虜になってたら、状況は変わっていたかもしれない。
アメリカ兵による一斉銃撃はなかったかもしれない。
他にも、捕虜になる人が続いたかもしれない。

でもまあ、捕虜になろうとしたら、後ろから撃たれる。
それが、この前の戦争だったんだ、ということですかねえ。


宮城さんは、今、あの世で、懐かしいお友達や先生がたとお会いしているんでしょうねえ。
どんなお話をされているんでしょうねえ。

宮城喜久子さんのご冥福をお祈りいたします。

 

ひめゆりの少女―十六歳の戦場

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