価値観の問題が根本にある

 イミさんのブログ( http://ymrk.hatenablog.com/entry/2014/04/20/202032 )で紹介されていたんですが、
『「ひきこもり」だった僕から』という本をやっと手に入れて読みました。

 上山和樹という人が書いた本です。
 この人は1968年生まれです。現在46歳かな。僕が教師になったのが1984年だから、その時この人は16歳。もし、僕が1年早く教師になっていたら、この人は中3だったわけで、ぼくが教室で教えたかもしれない。(もしも僕が神戸で教師をしてたらの話)

 この本が出版されたのは2001年。筆者が33歳の時です。

 

 筆者は勉強もスポーツもできる子どもでした。
 筆者は中2の10月突然体の異変におそわれます。動悸、息切れ、めまい、下痢・・・。得意だった勉強が手につかなくなります。落ちこぼれる恐怖心。

 しかし、中3の1学期までは、休み休み学校に行っていたとのことです。でもとうとう夏休み明けから1日も行けなくなります。しばらくして塾も行けなくなります。高校は、希望校ではなかったけれど、有名進学校に入学します。しかし、1日でだめ。理不尽に教員からビンタされたことがきっかけ。

 僕が教師になった1984年というのは、「荒れ」が中学校現場を襲ってました。一緒に教師になった友人の中にも、自信を失い教師を辞めた者が何人かいます。
 また、尾崎豊がデビューしたのが1983年。シングル「卒業」が発売されたのは1985年。また、チェッカーズも大人気でした。

 でも、筆者の通った中学校、高校では、そういう「荒れ」はなかったようです。
 筆者の記述にはそういうのをうかがわせるものはなかったように思います。

 

 まだ、1度読んだきりなので、印象に残ったことを書きます。

 筆者は、不登校・ひきこもりの当事者の苦しみには「価値観」の問題があるといっています。学校や会社など周りの社会との「価値観」の違いがまずある。社会に働きかけて変えていくという方向になればいいのだけれど、そうではなくて、当事者の中でその違いを解決しようと努力する。苦しみながら登校したり働いたり。でもそのストレスに耐えきれず、不登校・ひきこもりとなる。

 もちろん、その「価値観」の違いは自覚されていないわけです。ただ、ストレスや苦しみとなってあらわれる。下痢やめまいなどの身体症状として。

 で、当事者は自分を責めるわけです。なぜ自分は登校できないのか。働けないのか。

 その解決にむけて大事なのは、当事者の立場に立った第三者の存在であると筆者は言っています。もちろん、家族も当事者の立場に立たなくてはならないのですけれど、それだけではなく、第三者が必要だと言っています。友人だったり、誰でもいいんですけれど。

 

 この本は、とてもすごい本です。筆者の覚悟がひしひしと伝わってきます。
 筆者は自分の経験を、ありのままに書いています。もう「洗いざらい」といった感じで、それがものすごい「迫力」となって迫ってきます。

 筆者は自分の全存在をこの1冊の本に込めたと言えます。

 特に「価値観」という視点から不登校・ひきこもりの問題を考えたところがすごくいいです。

 ただ、この本を書き終わった時も、ずっと筆者の苦しみは続いてて、それが次のところから感じられます。

 「生きている理由は、自分の中にはない。自分のことだけを考えるなら、死んだほうがいい。死は、解放だ。
 大好きな人がいて、自分が死んだら、その人が悲しむ。だから死なない。それしか理由はない。
 「期待されている」は、理由にならない。」

 本当に、すごい本です。

 

「ひきこもり」だった僕から

「ひきこもり」だった僕から